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ムスチスラフ・イジャスラヴィチ (ノヴゴロド公) : ミニ英和和英辞書
ムスチスラフ・イジャスラヴィチ (ノヴゴロド公)[こう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラフ : [らふ]
  1. (adj,n) rough 2. (adj,n) rough
ラヴ : [らヴ]
 【名詞】 1. love 2. (n) love
: [こう]
  1. (n,suf) prince 2. lord 3. duke 4. public 5. daimyo 6. companion 7. subordinate

ムスチスラフ・イジャスラヴィチ (ノヴゴロド公) : ウィキペディア日本語版
ムスチスラフ・イジャスラヴィチ (ノヴゴロド公)[こう]
ムスチスラフ・イジャスラヴィチ(、? - 1069年)は、キエフ大公イジャスラフ1世の子である。ノヴゴロド公1054年 - 1067年ポロツク公:1069年。
==生涯==
1054年、ノヴゴロド公だった父のイジャスラフがキエフ大公となり、ムスチスラフはその後を継いでノヴゴロド公となった。
1065年、ポロツク公フセスラフノヴゴロド公国領のプスコフを襲撃した。1067年にはチェリョーハ川(ru)でムスチスラフはフセスラフの軍に破れ、ノヴゴロドは占領され、街の半分が焼失した。フセスラフはノヴゴロドの聖ソフィア大聖堂の鐘や、イコン、礼拝道具などを奪ってポロツク公国へと帰還した。一方ムスチスラフは、キエフの父の元へと身を寄せた。
何人かの研究者によれば、フセスラフがプスコフ・ノヴゴロドを攻撃したのは、980年にノヴゴロド公ウラジーミル(後のキエフ大公・ウラジーミル1世)の攻撃によってポロツク公国が破壊されたことへの報復であると推測されている。また、フセスラフが持ち帰った戦利品は、当時建設中だったポロツクの聖ソフィア大聖堂のためであるという仮説がある。
父のイジャスラフ1世は、1068年シャルカンの率いるポロヴェツ族の襲撃によってキエフから逃亡していたが〔國本哲男『ロシア原初年代記』196頁〕、1069年にポーランド人の援助によって、再びキエフへ帰還した〔國本哲男『ロシア原初年代記』197頁〕。この出来事に関して以下のような記述がある。すなわち、イジャスラフ1世は自身に先んじて、ムスチスラフをキエフに派遣した。キエフでムスチスラフは暴動の首謀者を虐殺した。その上、父がキエフから亡命する原因となった者たちを、殺したり盲目にしたりした。というものである。
また同年(1069年)、イジャスラフ1世の軍はフセスラフを破り、ポロツクを奪った。ムスチスラフはポロツク公の座に就いた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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